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土に気付く

道元の『典座教訓』の教えによると、食事をつくるということは 非常に大切な行為でした。食材をむだなく活かすことは食べる人への 心配りが求められるからです。私たちが普段購入している食材や調理について知ることは自分のみならずそれを食する人への配慮になります。

土の再生

◆北の大地田代平の挑戦

■理想的な有機農業の農地
tasiro06.jpg 秋田県の最北地、鹿角市のまた最北に位置する田代平は、本州では珍しく広大な大地が広がっている。3000㎏も広がる大地。6月にはヒパリが大空を舞い、歌い、急降下で巣に戻る。透き通る青空に雲雀の羽音が聞こえてくる。年間で一番気候が安定しているの
はそのころ。5月の末から6月の中ごろのわずか20日間ばかりである。たまに訪間する我われにとってその広さと若草の緑、透き通った空気、ゴルフ場と違い入工的でない空間はたまらない魅力である。

 この地域は戦後開拓地として開かれ、主に東北の各地から250所帯が入植し、開拓が始まった。開拓地はブナ、カツラの大木が生い茂る原生林大地であったらしいが、そこを切り開いて広大な大地を開拓している。
 だが、その後多くの入植者はこの地を放棄してしまった。現在、農業を継続している生産者は当時のわずか5%、13世帯が酪農によって生計を立てている。酪農家は平均30ha以上の牧草地を経営し、のんびりとした牧歌的な素晴らしい農業環境に見える。その地域を私たちは新たな農業の対象として選定し、平成3年から実際に多くの栽培を手がけ、多くの失敗を体験した。この地を選んだのは、気侯条件が厳しいこと。厳しい条件で成功すれば未来が切り開けるのではないか、と思ったからだ。理想的な夏秋野菜の有機栽培が可能な地域と判断したこともある。都合4ヶ年で6haを開墾し農地に転換していった。


■長野に負けない味
 最初の年は、基礎的データの収集を目的に開墾地と試験栽培地に分離し、40種150品目の野菜、ハーブの栽培実験を行った。7月の初句にダイコン、カブ、レタス、リーフレタス、キャベツ、スイートコーン、それに日本では栽培が少ないトレビス、チコリを植え付けた。ハーブではラベンダー、ヒソッブ、タイムをはじめ入手が可餡な多くの品種を試験栽塘として定植した。
 ダイコン、レタス、キャベツは品種の設定さえ間違えなければ、面積の拡大によって経営が可能なデータが得られた。品質的には長野に負けない素晴らしい食味であった。トレビス、チコリは経済的栽培にならず、そのまま収穫せず廃棄状態で越冬させた。
 次年度は計画栽培の面積を拡大し20ha程度の栽培目標を立て、主にダイコン、レタスなどとハープ類の栽培を手がけた。関西地域は8月のお盆が終わり、地蔵盆のころからダイコンが高騰する。
 その時期から逆算し6月の終わりに播種が始まった。大型トラフクターで大地を起こし、畝立てを行い、播種していった。長い畝は300mにもなり、本州では考えられないほどの壮大な景色である。
 1週間後には発芽が始まり、本葉が出始めた。急いで間引きを始めた。しかし、思いがけないクレームが現場から出てきた。あまりにも長い畝のため、行けども行けども作業の終わりが見えず、後ろを娠り返っても前を見ても作業の進展が見えず疲れが加速する。よって、ほかの作業に変えてほしいというのだ。
 人的能力を必要とする作業は一定の修了サイクルが必要で、作業の内容が一定のサイクルごとに確認でき、一つひとつの作葉に終止符を打つことがより効果的であることに気づかされた。機械と人間の違いがそこにある。
一反規模の農業との違いをこのとき初めて味わった。広さが持つ効率の悪さである。


■7月に気温5度
 一般的にダイコンは冬秋産地では一反当たり5,000~5,500本が栽培単位である。この時点で大規模生産では約1割が減少する。本葉が出てすぐ、少し多い降雨があった。山の降雨は平地より集中的に降る傾向が強い。長い畝はまたたく問に水流に流され、崩れだす。下流では無惨にも表土まで流されている。すでにこの時点で面積の20%を失ってしまった。
 効率を求める規模の拡大は、降雨量の多い地域では畝が雨で流され、非効率な面が出る。雨上がりの朝、急に外気の温度が5度まで下がり、この地方独特の山背の気候になった。「やませ」とは、三陸から青森、秋田、山形の海岸地域に吹く霧や小雨を伴う冷たい風であり、冷害の原因となる。山背が吹くと、山全体が雲の中である。この地方は標高が600~650m、雲は上から下りるのではなく、谷からはい上がるように大地に向かって湧き上がってくる。そして十分も経つと目の前10mが見えないほどの霧となる。その後も一向に外気の温度は上がらず、低温が続いた。
 ダイコンは成長しているように見えるが、少し様子がおかしい。すでにこの時点で抽台(食物の花茎が急に伸びること)が始まっていた。この年、7月の晴れ日はわずか7日であった。7月の平均気温が6月より低いのを初めて肌で味わった。この地は東北でも最後まで山背が残り、一番厳しいと聞いていたが、これほど厳しい自然環境は初めての経験である。すべてのダイコンの商品としての価値は喪失した。
8月にはダイコンは20cm程度に伸び、白い花を付け始めた。九月のなかごろ、早い秋を楽しむツアー客を乗せた観光バスが、十和田湖方面に向かって通り始めた。そんなある日のこと。観光バスがダイコンの畑の横に止まり、パラパラと中年の女性が降りてくる。
手にはカメラまで持ち、花の景色を撮っている。そして中年の女性が訪ねてきた。
「この花は何という名の花ですか」
 ダイコンとは口が滑っても言いたくなかった。
「この辺の野草ですわ」
「きれいな花ですね」
「野草を集めて育てておられるのですか」
「まぁー、そんなとこです」
「こんな素晴らしいところで野草を育てて、この花はどうされるのですか」
 ほっといてんか、とも言えず、ただうなずきながら苦笑いをしていた。
「やっぱり田舎はいいですね、のんびりしていて」
 と景色を言っているのか、買い手のないダイコンの花を指しているのか、何となく馬鹿にされているようである。
 そして1人、2人と、バスに乗り始めた。練馬の番号が付いていた。全圓がパスに乗り、走り始めた。後ろから石でもぶつけたい心境を我慢するのが精いっぱいで見送った。


■蕎麦も育たない土地
 その年は7月の末に蕎麦に初めて挑較した。蕎麦は、気候の厳しい地域で誰が親培しても収穫できる品目である。世界でも自然環境の厳しい地域が最後に選択するのは蕎麦だ。蕎麦は長野県の四倍体とチベットの赤蕎麦の種を半分に分け、約7ha播種した。長野四倍体とチベット赤花は発芽のときから色が少し違う。
 最長で300mの畝に2列に播種し、1週間後には発芽が始まった。赤い茎に緑の小さな本葉を付け始めた。幼稚園児が何百人も赤いタイツをはいて、飛び跳ねながら緑のスカーフを振り回しているように、薄い雲が走る大地に芽を出している。
 8月のなかごろには15cm程度に生長し始めた。長野の四倍体は生育が早く、平均で5㎝は大きくなっている。しかし、この年は8月になっても気温が上がらず、金体に生育は悪く、どことなく頼りない。大地に近い下の節にへんな芽が付き始めた。
 8月の終わり、よく見るとすでに小さな花芽が付いている。一定の生成長を見る前に花が付き始めた。一週間後にはどの蕎麦にも一関節、一関節に花芽が付き咲き始めた。成長は続けているが、パラバラに花が付くことは最悪の生育である。一面が蕎麦の花で埋まるのでなく、下枝にぱらぱらと花が付き、成長点は止まっていない。
 花の終わった箇所は早くも茶色に変色し、中間は花芽が付き、上は生長を続ける、これまでにまったく経験のない蕎麦の畑である。その結果、700kgの蕎麦の種は収穫後300㎏に減少し、種の42%を刈り取るのが精いっぱいであった。多くの蕎麦の種は、生育の途中に大地に播かれたままの状態だ。嵩麦も収穫できないの農業地域が存在していることを初めて経験した。
 約14haの夏のダイコン、蕎麦は一銭の収入にもならなかった。この時点で普通の農家では破綻である。250所帯の開拓者が、どのようにしてこの大地から去って行ったのか、この1年でいやというほど知ることができた。今残っている老いた生産者は、苦しかった過去を振り返って話す。
「残るも地獄、去るも地獄、山を下りるにも一銭もなく、下りた人はその後どのようにして下まで下り、列車に乗って去っていったのか......」


■雪解けとともに再ぴ挑戦
 この地は冬の厳しさは北海道に負けていない。毎年マイナス25度にまで気温が下がり、雪は下から降ってくる。地吹雪である。「八甲田山死の行軍」に出てくる光景と同じような地域である。この地に残った人ぴとが最後に栽培できる品目は牧草しかなく、酪農が現在唯一経営農業として存続している。
 惨憺たる1年を迎えたが、これで引き下がっては開発にならない。むしろこの時点で本当の開拓のスタートと考え直した。先代と違った現代の社会の視点からこの地城を見ることが、次のテーマである。
 自然環境との共生を忘れていたことが前年度の失敗である。何よりもダイコンの販売市場とその時期に合わせた栽培が間違いの始まりで、この地域の環境に合った品目とその栽培時期が生産の原点である。蕎麦ぐらいは簡単にできるはず、と基本的に楽観しすぎたきらいがある。南西日本のように自由に栽培時期を調整できる農業との根本的な違いである。
 希望が持てるのは、不毛の大地ではなく、牧草は生産されていることだ。
 翌年、雪解けと同時に山に入り、できるだけ地域の樹木、野草を観察し生育のよい品種、品目を探り回り、これまで定植した植物の生育状態を調べることから始まった。この地城の雪解けは4月の中ごろから始まり、谷の雪が解けるのは5月の連休が終わるころである。
5月の20日ごろが桜の季節、そして一気に樹木の発芽が始まり草地は芽生えてくる。
 前年に定植した、期待していたラペンダーの多くは枯れていた。ローズマリーも温度に耐えることができない。ヒソップ、タイム、それに日本では経営栽培の少ないヒースが寒さに耐えている。驚いたことに、廃棄したはずのチコリやトレビスは越冬し生きている。


■夢のような光景
tasiro05.jpg 七月になると、ヒソップ、タイム、セイジ、ボリジ、ミントの株の周辺は小さな芽がいっぱいになっている。前年落下した種から次々と発芽している。チコリ、トレビスは環境に合っているのか、生長し花芽をいっぱいに付けている。栽培するよりも、放置しているほうが生育に合っているらしい。一面にハーブ類が共生し育っていた。
 多くのハープが花を付けた。なかでもヒソップの薄い紫が美しい。この花は寒い地域ではブドウと共生させるとした教書があるが、その理由を初めて確認できた。ヒソップの花の周辺は何百もの蜂、蝶がその香りに酔いしびれ、リンクのようにホバリングしたまま漂っている。弱い風が吹けばそのまま流れるように漂いゆれる。少し離れて見ると、蜂や蝶がそれぞれの色で輝き、何十にも重なった虹のようである。大地にも一面に蝶が羽を広げ、すぼめ、漂っている。人が近づいてもまったく飛び立とうともしない。夢の中の光景を見ているようで、その景色だけでこの地の新たな価値を知ることができる。
 その後の数年の間、この地域では厳しい環境のなかで農業と自然との共生の根本的意味を知る実践的経験を得ることができた。この地域に合った農産物の確立には、根気よく小さな一本の草やハープから学び、時間をかける以外に成功はおぼつかないし、豊富な知識と情報も欠かせない。その後、この地で育った若い人たちがUターンし、現在は40歳代の所帯と20歳代の若夫婦が約30ha面積で、これまでの失敗から新たな農業栽培品目を確立し、酪農以外の農業を選び、経営を続けている。


■新しい芽を育てよう
 この成功の裏には、農業に理解のある関西の経営者が経済的支援をしていることもある。農業の根底、自然との共生と調和を基礎にして、単年度に早急な収益を求めない次元の高い育成の精神が活かされているのだ。パプル崩壊から市場原理、価格競争だけが優先する社会構造のなかで、毅然として一貰した思想を貰く農業と企業の在り方の理想的な見本である。
 この厳しい環境で一定の農業生産の方向性が見え始めたが、秋田県の政治家、行政、鹿角市、JA組織などの対応は大変冷ややかである。その理由は、この最北の厳しい環境で農業が成功すれば、これまでの自治体の指導や公共事業に依存する体質に大きな風穴があき、政策のミスを認めることになる。東北地域では独立した農業経営は、長年継続し構築された地域の政治家、行政への農民の従属と依存性を崩す邪魔な存在として見られているのが現状である。
 農業は地域産業の根幹であり、顔である。7月にわずか7日しか太陽の出ない秋田県の田代平にも、新しい農業が芽生え始めている。その一歩は新たな大地の開放と都市生活者の理解によって始まった。今、若者は新たな価値観の挑戦をしようとしている。決して高い収益性が望めない農業に新たに挑戦しようとする人口が年間7万人近いとの報道がある。どうか地域の行政と生産者は、勇気を持って新規就農者を迎えていただきたい。
 その勇気とは、その地域で一番農作物の栽培しやすい、最適地を開放してやることである。全国各地の新規就農者誘致の土地を見ると、決して喜んで誘致しているようには見えない。この地でどのような農業ができるのか疑問な土地を平気で紹介している。
 どちらにしても、3~4年でけつ割って逃げるから、それでよしとするような誘致は決してあってはならない。彼らはすべて素人であるが真剣である。
 どのように地域を活性化させるかは新たに地域に何を芽生えさせるかにあり、その根底は人である。彼らに早い成功は期待できない。失敗すれば大きな経済的負担が生じる。最小限の経済的な損失で留まり成功を見るには、過去のその地での豊富な農業経験からの指導は欠かせない条件である。その地の老農の経験が有機農業の教科書であるはずである。元行政マンの指導ではその多くは意味をなさない。彼らは日本の農業を崩壊させた農業指導の張本人であり、その解決策を持ってはいない。
 日本各地に点在している古い炭坑や鉱山の廃村の地域を見ると、共通して無惨な形骸が取り残されている。廃校となった学校、古い官舎の跡、山裾には幾つかの小さな墓標が傾き崩れ落ちている。その地には何年も人が訪れた跡すら残っていない。この地を立ち去った人びとの多くは、二度と思い出したくない大地の後ろ姿である。厳しい経済状態を何年も経験し、その後、追い出されるように去って行った人は決してその大地に愛着は湧いてこない。むしろ憎しみが増大している。
 新たな農業にチャレンジする若者の多くは同じ運命が想像できる。すでに老いている農業地域に新たな憎しみを増やす若者が存在して、地域の活性化はあり得ない。新たに入るその若いチャレンジャー以外に、老化した地域の山林を活性化させる起爆材は存在していない。
 新たに農業にチャレンジする若者を、どのようにして都市の消費者と企業がパックアップできるのかが、日本の課題である。