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関西文化とロハスデザイン

三都の食生活の違いを分析し、食生活の違いから生じる精神性や産業構造の違いを 分析することによって、食習慣から作り出される生活習慣や精神性を探索し 時代の課題として検証します。

京都・大阪・神戸関西三都の食文化

◆京都の伝統

京都は平安時代に都が移され、都市として、発展してきた。大阪が都市として位置づけられるのは、室町時代の後期から安土桃山時代である。神戸は、明治時代から大都市として発展している。

都市が形成されてから京都は、約1、200年、大阪は、約450年、神戸は、約140年の違いがある。
京都の歴史は、朝廷、公家、神社仏閣等の宗教及び時の幕府によって権力構造が変わり、時代の覇者によって都市が作り変えられてきた。
江戸時代の終わりまで、商人や町人の経済活動の一部は、公家や所司代の一定の管理下におかれていた。
江戸時代の町民の管理は、現代国家と変わらない程、行き届いており、京都の町の人口は、町内ごとに区分され、「元禄期の京都覚書」を見ると寺院は、宗旨別に、檀家人口を把握している。
異教徒のキリスト教を排除するために極めて厳しく管理されていた。
天台宗、  9、056人、
真言宗  10、070人、
法華宗、  6、400人、
禅宗、  11、050人、
律宗、   9、400人、
浄土宗 145、120人、
日蓮宗  62、728人、
西門跡派、40、020人、
東門跡派、80、120人、
仏光寺派、87、119人、
高田派、  7、406人、
大念仏宗、   280人、
時宗と山伏、6、073人
  総計408、723人、(延宝2年、玉露0、1674年)
檀家の家族と家族構成、家系図まで把握している。
人口だけではなく、職業まで細部に書き込まれている。
寺院では、檀家の家族の名前、戒名、死亡した日まで管理されており、江戸時代は戸籍係の役割までを持っていた。
今もその流が残り、寺院では、死亡後の戒名の管理を行っている場合が多い。
各町内の町名と地図、道路には、大路、小路と図子、辻、に名前があり、露地、ろうじの幅や家の間口の広さまで書かれている。
京都は、家の間口の広さで、一種の税を京都所司代が徴収している。一軒の間口の広さが決められており、細部にわたり、図解されている。
一間長屋、半間長屋、長屋の入り口の露地、ろうじの広さで、家賃も違っていた。町内には木戸があり、町内別にお地蔵さんが祭られ、井戸と火消しの桶が必ず置かれていた。
その伝統が今も町内会費の割り当ては、間口の広さで決められている町内もある。
この時代は、他の地域から都に入るにも届け出が必要とされており、商人が移動するのにも、今のように、自由ではなく、出入りは町内毎に管理されている。
完全な管理社会になっており、食糧品を運搬するにも今のように自由に流通されていたとは考えられない。大変な苦労が読みとれる。
京都は内陸にあり、海には遠く、鮮度のよい魚は、川魚しか手に入りにくい。
日本で始めて作られた調理の流儀は、「四条流包丁書」1489年に書かれている。
一番始めに教えているのは、鯉の料理である。鯛やはも、マグロではない。
江戸時代の日本人は、質素倹約が身についていたと考えられるが、京都は地理的にも厳しい環境がある。
京都の古い商家には、代々伝わる家訓書が多く残されている。どの家訓書も質素、倹約が書かれていない書はないと云っても過言ではない。
家訓書には、朝廷や公家、所司代への口上書の書式など子細に書かれ、指示書や命令書に近く、代々家を引き継ぐ厳しさが読みとれる。

町民が生活する町屋の周辺に食材が栽培されていたり、獲得できる環境ではなく、買い求めなければ、生活できない。町屋の生活者には田畑が無く、野菜、雑穀、魚、乾物、だけではなく火の元になる、薪や炭も全てを買い求めなければ生活が出来ない。
京都は公家、貴族だけではなく多くの神社仏閣があり、それぞれ従事する人口が多く、その上に多くの祭事や行事がある。京都には12ヶ月の月の内にどこかの神社仏閣で祭事があり、祭事は町民の参加によって成り立っている。
祭事や行事は貴族、神社仏閣の重要な収入源であり、商人の経済的活力と町民の懐を利用している。
江戸時代の京都を中心にした、山城八群の領主別石高は、 
朝廷
   朝廷御料約   28,000石、
   法皇御料約    5,900石
公家
御門跡方    15,400石
親王御家門公家方 41,450石
  地下役人知行  2,540石
社寺
神社領      14,150石
  寺院領 26,663石
この時代は公家は神社仏閣よりも高い石高である。社寺の合計は、朝廷、公家の領地よりも遙かに少なく、京都の社寺は宗派の本山が多く、41,813石では、維持ができず、仏事が重要な歳費の収入源であったはずである。
寺領を減少させたのは、信長、秀吉、家康の3代にわたり、宗教との反乱と闘いから領地を減らし、力を持たさない政策が取られている。
寺院が仏事、死後の行事を広く、町民生活に浸透させたのは、江戸時代からである。
葬儀の儀式、その後に続く仏事は、寺院の寺領以外の収入源として考案されている。
窮すれば、次の策を考案する強さすら見られ、今風の出前は、法事、仏事の家に訪問するスタイルからきている。
過去にたびたび米国やEC諸国に訪問したが、神父が祭事に出前する話しは聞かなかった。
台湾でも僧侶が家庭に訪問する仏事は見られなかった。
江戸時代以前は、町民の葬儀の多くは、時宗が取り仕切っていた。
時宗から変わり、寺院が葬儀の儀式を行ったのは江戸時代からである。
今も京都では、普通の市民の葬儀行事を行わない格式を重んじる寺院がある。
寺院の仏事、お盆やお彼岸に飾られる品々は、地方都市の寺院ほど昔の風習が残されており、お供えの品々は、米、豆、野菜、味噌、醤油、昆布、干し椎茸、鰹など食べ物が重複することなく、盛り飾られている。
お供えは金銭だけではなく、保存性の高い食品も歓迎されていた。
仏事には、欠かせないお膳、精進料理や年期明けの料理は、お供えの食材が利用され、この時代から町民の生活にも密着してきた。精進料理は仏の道を悟りとして修行する僧侶の食事であるが、町民の葬儀の儀式を家庭や寺院で行うことから、広く町民の食文化として定着していった。
寺院と市民生活が密接な関係のなかで、継続されてきた。
京都の文化には、朝廷や公家、神社仏閣、時の幕府の威厳を示すために、形式、儀式の作法を重んじられた。
茶道、香道、華道、歌、舞い、歌舞伎、狂言等の流儀と流派が広く組織化され町民生活にも浸透している。
五山文化のころ禅宗の教えの一つ、自然との調和、無駄のない質素倹約した生活スタイルと京都の自然環境、軟水の水の質、木造家屋の密集したしたなかで火力を抑える調理加熱、海産物の流通が少ない山間地の地形から必然的に乾物を多く利用した調理方法、儀式や形式を重んじながら美味しく仕上げる工夫が融合し作り上げられている。
建築物、衣装、食生活に必要な道具、調理道具、調理方法等が質素倹約の生活スタイルのなかで熟成し芸術性を求め進化し発展してきた。

安土桃山時代の豪商、角倉家や後藤家は、政変によって、力が衰退した。
その現実を見た京都の多くの商人は、時の権力者との間は、常に一定の距離をおき商取引をする事が家訓として伝えられている。
貴族社会や神社仏閣は、武士社会の政変によって、経済的基盤が変動を受けやすく、豪華絢爛な生活が常に継続出来ないことを体験し、建造物や伽藍の大きさを競わず、外観の大きさや派手さ、見栄の外観ではなく、品質の中身に重きを置き、一見、質素を演出する生活を維持している。
調理の素材は、身近に手に入る素材から品質を選択し、保存性、貯蔵性の高い素材を利用し、儀式、形式を重んじ、作法を如何に形式的に演出するかにあり、塩乾物、雑穀、地元の魚類、鳥類、地元野菜を利用した素材の味覚を引き出す、薄口で煮付ける調理に重きが置かれていた。
精進料理、普茶料理などの素材は、雑穀の調理品、野菜類が多く、質素ななかで形式や儀式を如何に演出するかを考え、素材の味の引き出し、彩りの美しさに重きがおかれ、仕上がりの美しさから素材の色彩を残し薄口で仕上げられたと考えられる。
一般的に出汁は「取る」と表現するが、精進料理では出汁は「引く」と表現する。この語源は素材の味覚を「引き出す」の意味とされている。
素材の味覚を引き出すには、素材の品質によって味覚が決まり、素材の品質は、栽培技術によって形状の美しさや色調が味覚に影響することを経験的に知り、栽培技術と調理が一体となって地域の産業を作り上げている。
出汁の味を年中安定して整えるには、素材の貯蔵性が高く、年中利用できる素材、乾物の昆布や鰹、椎茸によって出汁を取り、調理されたと考えられる。
形式や作法を作り、演出するには、単に、薄口で仕上げるだけではなく、細部に渡り、切り方、彩りに重きを置き、飾り付け、盛りつけの工夫がある。
包丁の入れ方、切り方によって美しさを演出し味覚に結びつけている。
野菜等の切る形は、祭事、祝い事、仏事等の行事によって変わり、その数は、約40種類になる。
白髪、針、賽木、拍子木、扇、短冊、賽の目、乱切り、みじん切り、鱗、菱、亀甲、雪輪、矢羽根、半月、敷紙、丸、銀杏、駒の爪、鹿の爪、烏帽子、松葉、扇形、櫛形、手づな、桂、花形、木の葉、よりうど、布目、小口切り、笹がき、蛇腹、編み目、千切り、桂向き、菱そぎ、五角、小判、花クワイなど多くの形の名称があり野菜の種類から選択している。
野菜の品目、種類、季節から調理方法によって変えており、実に繊細である。
料理の作法や形式が、飾り付ける器やお膳、卓、陶磁器、漆器、箸等の工芸品の発展に結びついている。
京都の伝統的な手工芸品の多くが、食べることが起点になり、発達したと云っても過言ではない。

昆布は、797年、延歴16年「続日本書紀」のなかに朝廷への献上として記載されている。902年、延喜2年には租税として昆布が納められている。
昆布の品質に関する記載は、1334年「庭訓往来」に宇賀昆布が名産とされ、北海道の礼文島、利尻、三石昆布、白口昆布をさしている。
礼文、利尻は出汁昆布、三石昆布は日高地方三石郡地域で取れる昆布で昆布巻きに適した昆布である。
三石と日高は別々に分類する事もある。
昆布一つを見ても実に繊細に用途別に分類されている。
鰹ぶしは、905年「延喜式」に鰹の産地が記され、煮鰹魚、鰹煎汁が献上とあり、鰹節が作られ始めたと考えられる。「延喜式」は平安中期に天皇に献上する品々が記されている書である。1489年の「四条流包丁書」には花かつおが記されている。

日本の原産の野菜は、三つ葉、ウド、セリ、フキ等で多くの野菜は外来種である。
「延喜式」905年、延喜5年に記されている野菜は、瓜、茄子、ひゆ、薊、蕗、あおな、茎立、薺、ちさ、葵、ギシギシ、韮、葱、蒜、生薑、山椒、蓼、蘭、コウサイ、芹、大根、水葱、芋茎、生大豆、小豆、生大角豆、熟瓜、茗荷、芋子、冬瓜、ハハコグサ、筍とあり、既に多くの野菜が栽培されていたことを示している。小麦、大豆、小豆などの25種類の畑作物の栽培概要が記載されている。
12ヶ月、季節に合わせ既に多くの野菜を生産していたことになる。
当時、既に春と秋に朝廷に治める漬け菜の総量が記され、漬け方は、塩漬け、すすほり(須須保利漬け)、甘漬け、糟漬け、醤漬け(ひしお)、にらぎに分けられており、
*すすほり、大豆と野菜を塩漬けにしたもの、酢菜とも云う、醤漬けは一種のみそ漬け、*にぎらは楡の皮を粉体にし野菜にまぶして塩漬けにしたとされているが味覚は解らない。
春は、わらび、よめな、薊、せり、蕗、そらし、イタドリ、うすばさいしん、いぬほおずき、瓜、ニンニクの芽、ニンニク球、韮、青菜もやし。
秋は、瓜、冬瓜、たかな、青菜、かぶら、なすび、いぬほおずき、なぎ、あららぎ、大豆、たで、オニバス、みようが、くくさ、またたび、山椒、柿、なし、もも等が漬け物として利用されていた。
当時の塩や麹などの貴重な素材を考えると高価な食物の一つである。
今の京漬け物より、遙かに豊富に野菜を利用している。
京野菜が今も伝統野菜となっているが、都市周辺の農家の収入源として花卉園芸が盛んになったと考えられる。
明治維新の頃に京都で栽培されていた野菜は、キュウリ2種、カボチャ、白瓜2種、茄子4種、さいとう、ささげ、藤豆、ダイコン7種、かぶら3種、ニンジン、ゴボウ、くわい、甘藷2種、さといも2種、みぶな、水菜、畑菜、体菜、うぐいす菜、ウド3種、ねぎ、みょうが、ゆり、たけのこ、そらまめ、せり、とうがらし2種合計29品目41種の野菜を栽培しており、同じ時期に東京では、19品目、大阪では21品目となっている。

京漬け物は、利用している野菜の種類が豊富なことで知られているが、意外にも現在売られている京漬け物の店舗の歴史は新しい、古い店舗で4代目~5代目で、昔はそれぞれの農家や家庭で漬け物は漬けられており、上賀茂のすぐきを農家の人々が漬けて売り始めていたのが古いとされている。
朝廷に治める漬け物は、大原、八瀬、雲が畑、上賀茂、白川、桂、鳥羽などの在から集められている。
店舗として売られていたのは、現在の田中長、和泉屋長兵衛が(下京区綾小路通り烏丸西入る)寛政元年(1789年)が現存では、一番古く、当時はみりん粕から漬け物を漬け販売されていた。奈良漬けと同じ粕から漬けた漬け物が店舗で販売されていた。
現在の浅漬けが京漬け物とされているが、当時は、1年、2年と長く漬け込み、発酵し漬け込んでいたようである。今もその味が残されているが、浅漬けと違い、絶品である。
保存性が高いことが漬け物の大切な要素であったと考えられる。
当時から、白瓜、蕪、キュウリ、茄子、スイカ、ダイコン、生薑が利用されていた。

京和菓子、和菓子の起源は、空海が中国から伝授され、京都の和三郎に伝授し始まったとされている。阿波、讃岐の和三盆の名はここからとられているとされている。
菓子は元来調理であり、朝廷の御用菓子から始まっている。その後茶道の普及によって、素材の選択、芸術性、加工技術、味覚が作られてきた。
和菓子の種類は多く、分類も複雑である。
「京羽二重」の諸職名匠には菓子所として23件の店があり、天保2年の「商人買い物独案内」48件の名が連なっている。虎屋、亀屋などの名前が見られる。
多くは、朝廷、公家、茶道、寺院の御用菓子の店となっている。当時は、うどんも中間食お菓子の部類なのか、とらやの羊羹で有名な、とらやは、朝廷にうどんを納めていた記録が残されている。
京都の和菓子やの看板に"司"の文字が見られる。公家、寺院の本山、家元に御用納めを行っている、一種の和菓子店の位い、看板の一つである。他に和紙の店にもこの看板が見られる。

京都の伝統的な家庭料理に"京のおばんざい"が最近有名になった。古くから多くの野菜の品目を料理に利用した伝統であり、京のおばんざいは、野菜の煮付けの調理が多く、薄味で野菜とおあげさんを煮付ける料理が多い。大豆製品と野菜のヘルシーな要素から見直されている。
京都の町屋の商人は、仏事、祭事には仕出しやに調理を求めるが、多くは町屋の台所に調理人が出向き料理をしている、町屋の台所で女将と一緒に料理をすることから自然に調理を憶えて作法や調理方法を会得した文化である。
もう一つ、京都で見逃せないのは、調理場や台所から野菜のゴミを出さない、加工の工夫と技術である。古くからゴミを河川に流すことが禁止されており、ゴミ収集の場所は、決められていたが、家庭からゴミを出すことが恥とする風習が長く残されており、つい最近まで、白川や高瀬川、みそそぎ川に沿った家庭から流れ出る排水口に、小さな竹のざるや金網のざるが受けられていた。
茶碗や鍋、おひつを洗っているときに間違って流れ出た、ご飯つぶも排水口で受け止め、使われていた。同じ頃に大阪へ遊びに行くと、道頓堀川や淀屋橋の周辺で人目を気にすることなく、平気でゴミを川に投げ入れている光景がたびたび見られ、"おいおい"と思ったことを思い出す。
京都は朝廷、公家、寺院そして所司代によって管理された中で、質素に倹約を維持するために、素材の無駄のない利用から、素材の価値を高める文化を構築していったと考えられる。



食文化と文化密度の関係

京都・大阪・神戸関西三都の食文化

食生活の違いと産業構造

京都、大阪、神戸市民の食生活と環境及びメタボリックの関係